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2017年5月18日木曜日

キーボードを弾くことは5歳の頃から多分人生の終わりまで僕という人格の重要な一部だ

体力がある、根性がある、というのは先天的な運動神経の良さとかそういうものではない。
例えば野球選手になるのに、基本的な動作を確立するために素振りを何百回もする、怪我をしない身体を作るために筋肉をつけ柔軟性を高める・・・これは才能じゃあなくて「繰り返し繰り返し、何度も同じ練習をする、同じストレッチや柔軟をする、というのをどのくらいやったか」、つまり練習量の話だ。
スポーツの選手になるのに基本的な練習の量は欠かすことが出来ないから、どんなスポーツでも何百・何千という練習を繰り返すために「体力」が必要で、身体がきつくなって悲鳴を上げそうになったときに投げ出さないための「精神力(=根性)」が必要だ。
これは、小さな頃からコツコツと積み重ねることで培うことが出来る。
運動神経的な才能じゃあない。

物事を「考える」つまり「思考力がある」「頭の回転が速い」というのも、コレに似てるんだと思う。

昨日、あるお客様に「経営戦略の大元」から「実際の行動計画のステップ」までを順を追って説明するために箇条書きにしたら、実に250行もの箇条書きになった。
経営戦略、なんていうと崇高なもののように聞こえるかもしれないけれど、実際の思考過程は小学生でも分かるような簡単な理屈の積み重ねだ。
簡単な理屈の積み重ねだけど、その簡単な積み重ねをひとつも誤ることなくコツコツと250以上も積み重ねなければならない。
これは難しいことを看破するような頭脳の才能は必要なくて、「途中でめんどくさくなりそうな積み重ねを諦めずに最後まで続けられるか」という、思考の「量」の話だ。

スポーツや運動は「疲れる」「汗をかく」「筋肉がつく」とある意味分かりやすい成果や苦労があるけれども、「思考の訓練」といのは意外に成果が見えにくい。
だから小学生や中学生どころか、いい大人でさえ「勉強することの意味がわからない」と言うけれども、その意味は明確だと思う。
年号を覚えることが重要なのでも、証明問題の解法を覚えることが重要なのでもなく、そういう「基礎訓練を何百回繰り返しても、頭の思考回路がバテて考えることを諦めてしまわないようにする」ために必要なんだと思う。
「ヘロヘロにバテたときでもフォームが崩れないようにするために素振り何百回も練習する」のと同じように。

そういう意味で、僕は「才能」はないけれど「延々と論理を積み重ねて思考し続ける」という「思考体力」は若い頃から積み重ねてくることが出来たと思う。
実際、3時間くらい休憩も入れずに議論をし続けるというのも別になんの苦痛もない。(けどジョギングで走り続けられるのはせいぜい1kmくらいがイイとこだが(笑))
これは本当に積み重ねの賜物だろうと、この歳になって本当にそう実感するようになった。

で、長い前置きを経てやっとキーボードの話(笑)

僕が何時間もフル回転で頭を使う「思考体力」を養うことができたのは、キーボードを弾き続けてきたからだろうと思ってる。
5歳位の頃からピアノを習い始め、途中からシンセ、キーボード、オルガンと色々なキーボードを弾くのが本当に楽しくて、一時期は本業になるんじゃないかと思うほど夢中になって弾いていたこともあった。

不思議なもので、手先・指先・肘を動かす動作を長く続けていると、それが訓練のようになるのか、自然と思考回路もスッキリ回るようになる。
20代や30代の頃には感じられなかったけど、40代後半頃になって、キーボード夢中になって弾いている時期には色んな発想や思考がどんどん回る・・・そういう体験を何度もした。

べつに、そんなつもりで30年も40年も弾いてきたわけじゃないけど^^;

この仕事をしていて、延々と思考回路を回し続けなければならないのは日常茶飯事。
なので5時間や6時間は平気で一つのことを考え抜く思考体力は必須になる。
この歳になって、ここまで続けてきたキーボードがこんな風に自分の身を助けるとは思わなかった。

んで、ね・・・

キーボードを弾くのは仕事や思考の糧になるからだと、そんな風に思ってるわけじゃない。そんな風に思ったことは一度もない。
好きな音楽を好きなキーボードで弾いて音を出して演奏できる。
それは僕にとって理屈でも理由でもなくただ単に「楽しくてしかたない」だけのもの。

演奏力やテクニックは、20代のときに比べたら半分くらいになっちゃったかもしれないけど、あの頃と一つも変わらず、一ミリも変わらず、キーボードを弾くのは楽しくて楽しくてたまらない(≧▽≦)!
きっと、僕の人生はキーボードに彩られて全うする人生なんだろうと思う。


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